W  報道の論点ズレ

 

 伊東光晴氏はその著である『経済政策はこれで良いか』の中で「私が最近の事情を見ていて最も不満に思うのは、エコノミストやマスコミが、自分の認識が統べて客観的であるかのように、政策を過剰に批判しているとおもえてならないことである。」(15)と述べるなどして、いわゆる「時流に追随する人たち」の論点そのものがズレている事を指摘している。「時流に追随する人たち」とはメディアによって視点が麻痺させられているジャーナリストのことをさす。それでは経済記者、エコノミストなどのジャーナリストたちは一体どうして視点が麻痺してしまったのか。

 

(1)論点ズレとは何か

 伊東氏の前述の著書の中に、面白い下りがある。『かつてテレビ討論会が終わった時に国民経済研究所のT理事長が、「あなたは、何が正しいかを追求しようとしている。私は、そんな事は言っていない。私は、聞きに来た人が何を望んでいるかを満たすことをいっているだけだ。私は商売なのです。」と言った。』(16)というものだ。この言葉には研究所員とジャーナリストという立場の違いはあれ、論点のズレが起きていくメカニズムを解き明かす重要なカギが隠されている。つまり論点の簡単に言えば次のようにして起きているということである。

 政府が政策を発表する。メディアはそれについてとりわけ議論の集中しやすい論点に的を絞って問題点を挙げる。世論はメディアを通してジャーナリストが挙げた問題点について、自分たちに関係ある部分にのみ問題意識を持ち、そのデメリットについて批判的な立場を取るようになる(デメリットの強調性)。世論について反応を示したメディアが世論を反映して方針を設定し、世論が批判的となっている部分について論点絞り直し、ジャーナリストに議論させるなり、評論させるなりする。こうして議論の論点が一点に集中する。集中した論点はすでに「政策の問題点」であって「政策の全体評価」ではない。政策の問題点を論じるジャーナリストは、次に政策の問題点が生まれた背景などを論じ、それについての是非を問うようになる。論点の中から論点が生まれるという具合である。

 これが世論によって評価され、それについてメディアの方針が変われば、その論点について、より発展的な議論がされるようになる。この発展的な議論というのは言い換えれば「派生的な議論」であり、最初の論点から生まれたものではあるが、目的が違ってしまっている。つまり論点そのものがズレている。世論によるデメリットの強調、メディアによる世論の反映これを繰り返すうちに、いつしか「政策の効果」は全く論点ではなくなり、いつのまにか「政策の問題点における責任の所在」なり、「政策の背景についての批判」なり、あるいは全く別の「政策担当者に対する責任問題」などに変わってしまい、経済の問題であったはずの論点が全く別のものに変わってしまう。これが論点のズレだ。先のT理事長風に言えば、メディアは世論が何を望んでいるかを満たすことを問題にしているのであり、ジャーナリズムは、メディアに求められたことを追求しているだけで、それが商売なのである。

 

(2)論点ズレの発生メカニズム

 先に見た論点ズレの発生メカニズムを詳しく論証したい。まず、報道システムの検討モデルを確認しよう。国民は情報、特に公共選択に必要不可欠なものとして報道を求める。メディアは国民が求めている情報をジャーナリストに発注、ジャーナリストはその行動規準であるジャーナリズムにしたがって情報を制作し、それをメディアがまとめ、販売という形を取って発表する。また、初期報道に関してのみは、メディア内部ジャーナリストが属する記者クラブから情報を制作、それをメディアが発表する、という形であって、メディアが情報を発注しているわけではないことを付け足しておこう。このシステムが、どのようにして論点ズレを起しているかについてこれから見ていきたい。

 

@ 初期報道

 初期報道は記者クラブに属しているジャーナリストが情報を発表する、という形をとる。たとえば政策発表があれば、記者クラブのジャーナリストがそこから世間に公表する情報を制作、メディアはそれを発表する。ここがスタート地点だ。この時、国民はメディアによって問題点の明らかにされていない情報を受取るのだから判断をする能力を持たず、まだ世論は形成されない。わかりやすく犯罪事件の報道で言えば、ある事件がいつどこでどういう風に起こって、犯人は逃走中だ、ということだけ知らされても、プロファイリングのプロでない限り情報判断の仕様がない。政治経済の報道に関しても同じことで、初期報道がなされても、よほどの知識がない限り、それについての判断の仕様がないのだ。

 また、何か起こらないと論点がスタートしないことも見逃せない。ジャーナリストは、日常批判が少ないがゆえに、本来論じられるべき論点を素通りしてしまうのだ。

 

A 第一段階

 次に初期報道の中から、重要と思われる論点をまとめる第一段階に入る。この作業はメディアが発注し、これをジャーナリストが行う。この時のジャーナリストは、場合によってメディア内部ジャーナリストであったり、外部ジャーナリストであったりする。ここで、メディアはどういう論点に絞れば良いかという点でジャーナリストを操作している。情報の重要度に関わらず全ての情報を解説し伝えるということは、受け手にとっても面倒極まりなく、メディアにとっては報道する時間や字数の関係から制限を受けることになるから、論点を絞ることで、要点をまとめる作業をするのである。この時に論点を絞ったからといって要点がまとまったかどうかなどということは誰も審査しないため、絞られて残った論点以外は、多くは無視される。BIS規制など、重要だといわれているのにもかかわらず、あまり広く知られていない論点が出来るのはこういった論点絞りで発生するものだ。

 メディアがジャーナリストに発注する情報は、わかりやすい情報、噛み砕いた解説による論点絞りである。国民が欲しがっている情報は、「そこに問題があるかどうかわからない難解な問題」ではなく、「そこに問題があるかどうかの選択できる問題」であり、細かい情報の詳細は初期報道でなされていればそれで良いのである。

 結果として、ジャーナリスト達は、メディア内部ジャーナリストであれば、それぞれ属するメディアの社風などを、外部ジャーナリストであったら、個人的な見解などを多少味付けした上で、この政策のどこが良く、どこが悪いのか、という簡潔な情報を制作する。たとえば景気対策の公共事業であれば、どういう所に事業を行うのかなど、挙げればきりがない論点のうち、「その事業によって景気に効果があるのか」という点と、「その財源をどうするのか」というわかりやすい点だけをとりあげ、ある程度各メディア別に評価した上で報道する。

 

B 第二段階

 続いて、その絞られた論点を見た国民が世論を形成し、そしてその反応をメディアが吸収するという、第二段階に入る。この段階は公共的な論点の取捨選択といって良い。

 国民は初期報道の事細かな情報など見てもわからないから、メディアによって解説の入り、論点の絞られた情報を見て事実を判断し、世論を形成する。公共事業で言えば、「景気に影響があるのかないのか」という点と「財源をどうするのか」という点を解説つきで読んで判断する。メディアは絞られたいくつかの論点について様々な評価を下しているわけで、世論の評価も様々である。しかし、明らかにどのメディアも懐疑的であると判断した論点が見つかると、それ以外に判断基準の無い世論は、その論点にたいして反応して、「おかしいんじゃないか」と感じ、デメリットの強調性が発揮されて、その点ばかりを評価するようになっていく。この時、世論を汲み取ったメディアは、世論に関心のある論点だけを取り上げ、その論点を重点的に報道する方針を固める。この時世論の評価は、必ずしも悪くなくても、そこにばかり論点が集中するのである。一連のクリントン大統領の女性問題に関して、責任問題がとりざたされると、進退問題に発展したが、この時世論は冷静に判断したように、世論の注目がそこに集中すればそれだけで、十分に論点ズレを起す原因となる。メディアは世論を反映して、方針を変更するのである。

 このとき、マスコミは、第一段階で論じられなかった論点に、たとえ問題が隠されていたとしても、その問題を検討することはない。既にメディアの報道の方針が決定したジャーナリズムにとってはその問題を発見する能力そのものを持たないし、メディア外部にこの問題を発見した人がいたとしても、方針が決定しているメディアはその意見を必要としないからである。これは継続的な視点が欠落している、としてVでも述べたとおりだ。

 

C 第三段階

 マスコミの重要な働きとされている議題設定機能が、十分に発揮されるのが、第三段階である。例えば一つの政策がなされるときに、その政策の問題点がどこにあるのかを明らかにするのがマスコミの議題設定機能である。第一段階、第二段階では多くの論点が無視されていく過程を示したが、第三段階は新たな論点が生まれる過程である。第二段階でメディアがどの論点について報道していくか決定した方針に沿って、新たなる問題点(論点)を、論点の中から取り出していく作業を行う。

 この時は、メディアは、「その論点について詳しく論じた情報」をジャーナリストに求める。ジャーナリストはその情報について詳しく調べ、その論点について新たなる見方なり、その評価なりを論じ始め、新たな論点を生み出していく。ちょうど財政構造改革論議で、「その内容がどんなものであるか」という方針のもと、各メディアが論じ出したのが、第三段階にあたる。財政構造改革の内容は多様を極めるが、ここで各メディアにおいてジャーナリストは天下りの問題などを例に挙げて、論点を数え切れないほど挙げた。このようにジャーナリスト自身が、論点の中から新たなる論点を挙げる場合もあるし、もう一つ、ジャーナリストが取材によって新しく外部から論点を発見する場合もある。「その論点について詳しく論じた情報」を発注すれば、ジャーナリストの取材の目は自ずから厳しくなる。普段あまり批判の及ばないところにも、ジャーナリストは問題を見つけるようになる。こうして新しい論点が次々生まれていくのが第三段階である。また、これらの論点は@でも指摘した通り、ジャーナリストが日常批判を行っていればすでに論じられていて良いものも多数含まれる。ジャーナリストが「そこに何かが起こらないと」行動を起こさないという、その構造にも大きな責任が有るのである。

 

D 第四段階以降

 第四段階は、設定された新たなる論点を国民が論じ、そして世論がどの論点に注目していくのかを選択していく段階であり、第二段階とほぼ同じことを繰り返すことになる。第三段階でジャーナリストが挙げた問題は、その内容が面白ければ面白いほど世論が動くようになる。第三段階で大きな問題を持つ情報が発表され、これについて世論が劇的な反応を示せば、メディアがそれについて方針を変えていく。時には既に決定した方針と、全く違った方針になる場合も生まれる。こうしてメディアは一貫性を失っていくのだ。

 第二段階と第四段階は同一的なものであり、第四段階以降は、第二、三段階に当たる過程を繰り返す。こうして、論点が新たな論点を呼び、論点がどんどんズレて行く。時には最初とは全く違う論点にたどり着いてしまうときもある、というのは、このような構造欠陥によるものである。

 

E 例証

 報道の論点ズレが以上のような段階を含んでいることを具体的に見てみよう。

 最近の例で論点がズレたことといえば真水論などはその典型であろう。しかし、最初から真水論議がされていたわけではない。

 初期報道段階は、景気対策予算全般に関する論議で、その景気対策予算が、どういう性質のものであるかというものであった。第一段階で景気対策予算の効果について各メディアごとの検討が成され第二段階で、メディアの方針がほぼ「景気対策予算の効果」はどのようなものであるか、という点が重点となってくる。

 第三段階では、様々な方法で、景気対策予算について論じられ、議論が進むに連れて、にわかに真水という言葉が出てくるようになった。GDPを直接増やす効果のある景気対策費を真水と呼ぶ。真水とは景気対策予算の効果を計測する目安であるが、真水はいったいどれだけなのか、というのが真水論の発端であった。

 第四段階以降では、真水論そのものが論点となって、議論が進行していく。真水論そのものが独立してその真水はどこまでが真水で、どこまでが真水でないのかというグレーゾーン論議に移り、真水論が本当に意味があるのかどうかの論議一日単位で論点がズレていき、最終的に国民のほとんどにどういった影響も残さないまま消えていった。論点ズレもここに極まれり、といったところだろう。

 

(3)論点ズレの問題点

 報道の論点ズレは、政策の効果など、そういったものを突き詰めていった結果生じたものであるから、それそのものは社会に対し適切な議論となっていく事も多いにある。しかし、経済の場合非常に多次元的なものであり、論点ズレのスパンが短いと、本来評価されるべき点が評価されないようなこともおこる。

 そういった報道の論点ズレそのものが持つ問題点は2つある。一つは論点ズレが世論の選択を経たものではないこと、もう一つは本来論じられるべき問題が論じられず、新しく生まれた問題ばかりが論じられることである。

 

@ 世論の選択を経ない論点ズレ

 論点ズレが世論の選択を経たものではない、という考えには異論があろう。現に私は、メディアは世論を反映する、と先に指摘している。しかしこれが世論の選択といえるのだろうか。

 間宮陽介氏は『同時代論』の中で素人の音楽愛好家がレコードから流れる音楽に合わせてタクトを振る真似をしているのは、指揮しているのではなく、音楽に指揮されているにすぎず、また新聞も時代の潮流に指揮されているだけ、と痛烈な批判をしている(17)が、では時代の潮流は一体どこから生まれているのだろうか。国民世論は報道から流れてくる情報を経て成り立っているのであり、時代の潮流は必ずしも市民から自動的に湧きあがって出来ているわけではない。先の音楽で言えばなるほど、確かに新聞は世論という音楽に指揮されているだけかもしれない。しかし世論という音楽を流す際に、流す曲のレコードを選択しているのは誰あろう音楽愛好家である新聞であり、国民に曲を選ぶ権利というのは与えられていないのである。

 政策の情報は初期報道を通して伝えられるが、それがどういうものであるかは政策の発表者ないし一部の専門家が知るのみで、多くの国民は「ああ、そうか」と思ってそれを見るだけである。それがやがてジャーナリストを通して問題点が明らかにされ、(第一段階)世論はそれに対して答えを出して(第二段階)、それをメディアが汲み取って新たに問題点をまとめる(第三段階)。第三段階では、第二段階で選択された最初の命題について論じるのをやめるかどうか、という事はまったく国民の意思を反映しているかどうかは分からないのである。

 最初の問題がどこにあったかを常にメディアが意識すれば、こんな問題は起こらない。しかしメディアは継続的な視点を持たない。論点ズレは、報道が社会に影響を及ぼす特別な役割を持つ以上は、システム的に逃れられず、またその問題も、回避困難なものであるのだ。

 

A 本来論じられるべき問題点の素通り

 初期報道は起こったことをただ伝えるという作業を一応ジャーナリストを介して行っており、ジャーナリストが最初の問題点について全く触れていない、というわけではない。にもかかわらず、論点がどんどんズレて、基本とも言える最初の問題点ないし、問題の検討を通して浮かび上がってきた重要な論点をも素通りし、結局それが必要なのか疑わしい論点にたどり着いてしまう傾向がある。

 論点ズレはメディアが悪意を持ってそれをずらしているのではなく、ましてジャーナリストには論点がズレているかどうかという自覚などない。知らず知らずのうちに、誰の悪意にもよらないでそれが起こるからこそ問題なのである。しかも論点ズレは即時的に起こるのではなく、ジャーナリズムとメディアに内在する問題を通じて徐々にズレているから、継続的な視点を持ってみないと誰も気が付くこと無く、自然に起こるものだ。歴史をただ振り返って、「マスコミの意見には一貫性が無い」と批判する人たちは、マスコミ(ジャーナリズム、メディアの両方)の人たちに悪意を感じているようだが、これはシステム的な欠陥であって、マスコミの人間が無能だから起きるという質のものではないと認識すべきだ。

 

(4)論点ズレの現実

 (3)で、真水論を例に取ったが、もうひとつ、論点ズレをはっきりと確認できる例を挙げてみよう。財政構造改革議論は議論が終わらないうちに経済そのものがおかしくなり、政策に至ってはほとんどがうやむやになってしまった、ということは記憶に新しい。小野善康氏はその著『景気と経済政策』で構造改革の目的が不況を生み出す構造を変えて好況を作りだそうという目的であったものが、いつのまにか悪者探しそのものが目的になってくる、と指摘している(18)。財政政構造改革は、「財政赤字を減らさないと財政が負担するから多くを民営化するなどして公営機関のスリム化をはかる」というものであった。この改革に対する論点は「ではどうやって赤字を減らすのか」から「赤字を減らすためにはどこまで民を削り、どこまで公を削るのか」という方法論的な論点に変わっていく。そして財政構造改革法案の審議が進むにつれ、「財政構造改革は可能なのか」という論点に移り、次第に「族議員とは何者なのか」「天下りを許すな」「このタイミングでやって良いものか」「不完全なまま終わった法案について」という枝葉の部分の論点へ移る。一つ一つの論点が重要なものであると思う。しかし「財政赤字がなぜ悪いのか」とはほとんどといって良いほど論じられていないのではないか。また、なぜ財政構造改革について議論されているのか、といういきさつに関する論点は初期報道以外ではなかったのではないだろうか。また公団の民営化、それに伴う規制緩和などの論点は「誰が得をして誰が損をする」という論議ばかりされていたような印象を受けるのは私だけではあるまい。小野氏の言うように「財政構造改革」の論点は悪者探しに終始するものが多く、なぜそうしなければならないのかという根本的な論点は素通りした。そしてクリーム・スキミングのような重要な論点に付いては触れられないまま、郵政事業民営化、公益事業の規制緩和議論が進められた。果たしてここに国民世論が論点を選択する余地はあっただろうか。国民世論は悪者探しと財政構造改革の方法論に目を奪われるあまり、他の論点の存在すら知らなかったのではないだろうか。  

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