V システム欠陥

 

 Uではマスコミに関する二つの内部主体が、それぞれ持つ問題点について指摘してきた。Vではマスコミが二つに分かれているからこそ起こる相互作用の問題について取り上げよう。生産業と流通業が、同一のものである場合、つまり野菜の青空市などの生産直販を仮定した場合、そこに中間に介在するものはない。しかし、マスコミは、自分たちでは認識していないかもしれないが、生産者と流通業者が別々のものであるシステムを持っている。生産者と流通業者の立場の違いゆえに生まれる相互作用が、どんな新しい問題点を生み出しているか見て行きたい。

 

(1) 継続的な視点の欠如

 経済政策に的を絞って見てみよう。政策についての発表、つまりは新しい法案の成立や、内閣の方針・見解の発表といったことなどは、そのまま伝えるのでは何が起きたのか世間には難解すぎてあまり伝わらない。だから法案や、方針の成立課程を含めて逐一報道するという形を取り、追って噛み砕いた解説を入れる。例えば法案の成立過程に、政界にスキャンダルが発覚した場合、そんないいかげんな人間に政治を任せられるのか、といえば世間の答えは「NO」である。この法案を立案したのはスキャンダルの本人であり政治とスキャンダルとは切り離して考えるべきだ、ということであることをいちいち言って、世論に訴えかけるようなことをする新聞記者はいないし、またメディアにも世論にも求められない。このように、ジャーナリストにとって、法案や、方針の成立過程を発表するということは、常に新しい断片的な事実を発表することにならざるをえない。

 ジャーナリストが事実を断片的に伝えるということは継続的な視点を欠如させがちである。U‐(1)‐@で指摘したように、ジャーナリスト達には、客観的な視点が欠如しがちである。であるならば、情報の発注元であるメディアが、継続的な視点を求めれば良いのだが、メディアは国民世論のニーズを反映するため、しばしば変節し、およそ継続的な視点を求める行動主体として似つかわしくない。

 現在のように、ジャーナリスト達とメディアが分離していると、経済政策について何らかの動きがあれば、その事実に対して新聞なりテレビなりで必ず報道され、その動きについて検討される。断片的な事象しか評価しないため、客観的な視点が薄れていく。そうなるとシステム的に、一つ一つの動きに対する評価の積み重ねて、日々政策に対する世論というものが作り出されていくが、全体を見渡す目が欠如しているため、大局的な評価が生まれない。つまり、政策発表の過程を見るあまり、政策全体を見通す継続的な視点が失われがちである、ということである。政策を道路整備にたとえれば、道路工事による渋滞の程度や、道路工事がどのような方法で行われているかについて非常に詳しく論じられているだけで、その道路工事の結果、最終的に道路はどうなるのか、ということが結局わからないようなものである。これでは政策が果たしてどういう成果を上げていくのか、またどういう成果を上げたのかはよく分からない。一つの政策を評価する上で、発表段階での評価だけで終ってしまい、その成果が現れる頃には、評価そのものに対して関心がなくなってしまっている。そういう報道姿勢では、たとえ道路が最終的に使いやすくなっても、道路工事のうっとおしさばかりが頭に残って、あまり評価されないという結果を生み出してしまう。

 現実に目を転じよう。景気対策にいくらの公共事業を行って、その財源は何で、おそらくそれはどの程度の効果がある、そして国債に対する依存度はこうである、ということは詳しく報道されている。しかし公共事業が実際に行われる段階になると、こういうところをこうしたとか、新しくこういう効果があったとか、そういう断片的な結果発表に終始し、結局景気に対してどの程度の効果があったのかがわからない。現実問題として、景気対策の効果を論じるときに、それをやったから、どの程度不況の下支えができたとか、どこまで意味があったのかとか、どこまで運がよかったのか、そしてどこまでが自然に回復するものだったのか、ということなどは数字にしてみることが難しく、雲をつかむような話ではある。が、それならば景気対策の発表次点で、どの程度の効果があるのか、というのも、同じように雲をつかむような試算になるだろう。たとえよく見えないものであっても、経済政策を正当に評価するのであれば、どの程度の効果があるのかについて、常に注意を払って見ていく報道姿勢が必要である。常に新しい情報ばかりを検討するような断片的な報道姿勢は、結局経済政策は何もしていないのではないか、という錯覚を生む。また景気の下支えであったり、雇用不安の解消であったりする「目に見えない効果」という政策の評価されにくい部分を全く無視したことになってしまう。

 メディアはニーズを、ジャーナリスト達は新しい断片的事実を追いかけざるを得ないシステムであるがゆえに、マスコミは継続的な視点を失っていくのである。

 

  1. デメリットの強調性

 我々が抱える心理的な問題が、健全であるべき報道システムをより脆弱なものにしていることについて指摘しておきたい。それがデメリットの強調性である。デメリットの強調性は、ジャーナリズムの問題とも、メディアの問題とも直接関係なく、人間の持つ心理的な問題である。

 人間は自分に関係する良い事と悪い事が並列に並んでいたら、悪い事の方を意識するものである。例えば何かの良くない問題があったとしたら、その問題を楽観する、悲観する、という事に関わらず、良くない問題そのものについて印象が残るのである。たとえばノストラダムスの大予言であれば、それを信じる、信じないという反応は人それぞれだった。しかし、ノストラダムスの大予言が思い出される場合は必ず1999年7の月云々のマイナスイメージであり、過去の予言が当たっていたのかどうなのか、というところだけを思い出す人というのはおそらくほとんどいないだろう。報道で言えば、ダイオキシン入り野菜が安い、という報道がされた時にダイオキシンが怖いとか、農家が大変だ、と連想する人はいても、安いから買いに行こうと最初に思う人はよほど生活に困らない限りいないだろう。

 政策というのは発表された段階ではまだあまり検討はされているわけではないので、メリットとデメリットが同時に報道される。我々のもつデメリットの強調性が発揮され、その後メディアが世論を反映すれば、その後議論になるのはたいていデメリットの方ばかりなのである。世論は自分達に関係あるデメリットに関して多くの関心を持つ事の方が多い。仮に世論がメリットばかりに目をむけていたら、政治批判は起こらず、政権政党はやりたい放題である。U‐(2)‐Aでも述べた通り、常に批判的な、納税者の視点を持って問題を注視する事は、必要な事である。しかしデメリットの強調性は「報道の論点ズレ」という報道の病理を、ますます加速する問題でもあるのだ。

 前述したように、報道の問題は、ジャーナリズム、メディア、そして国民世論の三者間関係から成り立つものであり、国民世論はメディアにニーズを提供する役割を持っている。デメリットの強調性の存在は、国民世論のニーズが、批判的になっていくことを説明する上で、重要な論点である。

 

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