D  論点ズレの功罪

 

 すでに述べたように、報道のシステムが引き起こす問題は必ずしも悪いものばかりではない。では、われわれは論点ズレについての認識をどのようにして見ていかねばならないのだろうか。ここでは報道の論点ズレが社会にどのような影響を与えているのかについて見ていくことで、この問題を認識することの重要性を明らかにしようと思う。

 

(1)論点ズレの功

 報道のシステム的な欠陥について、今まで検討してきた。しかし何度も述べているように、この欠陥はシステム的なものであり、誰が悪いというものではなく、また必ずしも悪く作用しているわけではない。論点が最初のものからズレていくことで、初めて見つかる問題点もあるし、またメディアの世論反映のように、その欠陥そのものが、民主主義に必要不可欠なものである場合がある。論点ズレは確かに問題点を多く含むが、それが必ずしも悪く作用するわけではなく、ことに、経済以外の事象に対しては、報道の論点ズレが民主主義すらリードすることがある。

 横山ノック前大阪府知事のわいせつ疑惑などは典型だろう。最初の論点はノック知事がわいせつ行為をしたかどうかであったが、裁判を見守る議論が進み、やがてノック氏の不戦戦略を採ると、「なぜ闘わないのか」という論点に移った。続いてはノック氏がわいせつ行為をしたか、していなかったではなく、ノック氏が知事として的確であるかどうか、と言う信任について、そして最終的には民衆の総意をもってノック知事を追い込み、辞任させるまでの役割を報道が担った。裁判で闘わなかったノック知事に対し、世論の反映と、世論の誘導と言う両方の役割を、むしろ論点ズレすることによってなしとげた例と言えよう。

 

(2)論点ズレの罪

 Wで述べたように、非常に多次元的で、動的である経済に対しては、報道の論点ズレは望ましくない場合が多い。多くの経済学者が指摘するように、報道に一貫性がなくなるし、結果、政府が結局何もしていないのではないか、という錯覚を生み、また政策が効果的にするかが疑わしくなってしまう。報道の論点ズレが、システム的な病理であり、経済以外の事象に関しては、必ずしも悪影響を及ぼすわけではない以上、我々はこの問題・現状を認識し、意識していかねばならない。我々の目が厳しくなればなるほど、メディアは世論を受け入れ、自戒するシステムであるからだ。

 では、政策担当者である政府、そして経済の道標となるべき経済学、そして報道の受け手である我々国民は現在この問題とどう向き合っているかについて見てみよう。

 

@ 政府

 政府は景気対策予算や経済に関する法案などの政策を打ち出す時、政府広報を通すなどしてその法案の意図などを伝える。当然その政策の意図などはマスコミを通じて報じられる。その他にも、政府は経済に対する見解などを「経済企画庁」などを通して発表したり、あるいは大蔵省資料としてマスコミに配布するなどして様々な情報を発表、公開する形を取っている。経済政策を効果的に機能させたり、あるいは今後どういう問題と向き合って行くのかを国民に報告する上で、これは重要なことであると言って良い。また、効果を発表しないまま政策を行うのは、透明性の上でも望ましくない。民主主義である以上は、国民に理解を得るために、どの政策を、どういう意図で行うか、ということはその都度報告しなければならないだろう。

 しかし、不況であればあるほど、赤字国債の部分などデメリットが強調されて国民に受け取られるので、論点ズレは大きくなる。そのうち政府は報道の論点ズレに振り回されるあまり、「マスコミ戦略」というものを重要視するようになってきた。報道の先進国であるといわれるアメリカでも、政策者本人が演説を行うなどして政策の意図というものを伝えようとしている。我が国でも堺屋太一経済企画庁長官が、多くの機会に直接自分で弁をふるっている。

 しかし政府が国民を納得させようと弁をふるう、となると多少全体主義的な匂いがしないでもない。政府のマスコミ利用はどこまで許されるのだろうか。政府が国民世論を均一にしようと一方的に報道を利用するというのは無論良くない。政府は世論に政策の理解がしてもらえるように、議論の中に自ら議題を持ち込む、という現段階で取られている形が一番望ましいだろう。しかし、不況が続く現在、国民の政治の関心度は低くなり、またデメリットは強調されるため、報道がそれに追随して世論を受け入れており、こうして生まれる「報道の論点ズレ」のために、政策の意図と言うものは国民には正確に伝わりにくくなっている。あまりこのまま経済政策が通じないようだと、政府のマスコミ戦略が強引になってくる可能性もあるだろう。この現状を、我々は注視し、厳しく監視することが重要である。

 

A 経済学

 経済政策というものは、何の理由も無く行われているものではなく、ちゃんとした経済学の裏付けがあって為されているものであるはずである。が、それがあまり機能しているようには見えないのはなぜだろうか。

 経済学者はただ経済学を学んでいるわけではなく、実際の経済に応用できるような理論体系の構築を目指している。そのため論壇では各学派がそれぞれの理論の正しさをぶつけ合っているのだが、どうやら現在の経済学は現在の経済とはマッチさせることができないらしい。要するに論壇では現実に無いところで「実現可能」な政策を論じているのであって、認められないことには現実に応用されない、ということである。最先端をいく経済学は、現在の政策によってどういう状況が現出され、またこういう問題が起こったのはこういう原因である、という結果論に終始しがちであり、当然為政者には知れにくい。結果、政策にはどうしてもすでに実績のある「過去の理論」が実現可能なものとして応用されることになる。

 そのため、現実として時代の先端を行く経済学は現状分析と処方箋にのみ使われる。現状分析、処方箋は「現状」を報道するメディアからの依頼によるものであり、エコノミストは一ジャーナリストとして自分の意見を述べる。このとき、すでにジャーナリズムは一人歩きしており、論点がズレており、せっかくの先端経済学も現在の経済全てを見渡すものではなく、断片を見るものでしかなくなっている。合成の誤謬、結合の誤謬といったものが今更のようにいわれ、経済政策に反映されないのは、経済学と、現在の経済にあるタイムラッグと、報道の論点ズレという三つの原因からなるものであると思う。

 

B 国民

 不景気になれば、ほとんどの国民が何とかして欲しい、と思うだろう。しかしそれに応えるべく行われた政策は、ほとんどどういうものかわからず、報道の評価を待つことになる。そのため、ある程度時間を置いてから、問題意識を持つのだが、結局報道の議題提示はある程度報道が一人歩きしてから行われてしまう。そのため国民が持つ問題意識は、多くの場合政策を正当に評価したものではなくなってしまう。まれにテレビで「景気対策予算についてどう思いますか?」というインタビューを目にするが、このときに政策が手放しで高く評価されているようなインタビューはあまり見ない。高い評価を見る時は同時に低い評価のインタビューも放送されている。どちらかといえば低い評価のインタビューの印象が強い。赤字国債が財源であれば、赤字国債について論じる「報道の論点ズレ」が生じ、国民が情報を手にした時にはその経済政策の効果云々より、赤字国債の情報がばかりが先行する。国民は財布のヒモを締めるなどしてほとんど政策に評価を与えず、評価されないがゆえに政策が機能しない。報道の論点ズレの一人歩きが与えるもっとも大きい悪影響だと言える。だからといって経済学を知らない、無知な国民を責めることなどできない。国民は経済には肌で触れるが、経済学には報道を通してしか触れることが無いのである。

 そういった流れを受けて、マスコミの本質や、影響力などについて幅広い知識を身につけ、メディアの提供する情報を的確に読み解く能力、「メディア・リテラシー」について、多くの議論がなされるようになってきた。高橋文利氏は、「メディア・リテラシー」は情報化社会を生きていくために不可欠な能力であるとして、カナダ、欧州のように、学校教育に広く取りいれていくことの必要性を語っている(19)。確かに、無知な国民を責めることは出来ないが、国民を無知なままほっておくことは愚の骨頂であると私も思う。「メディア・リテラシー」は、報道の論点ズレを修正させるという意味でも、確かに現代人に必要なものと言えるだろう。

 

結び

 我々は市場社会が「市場の失敗」と言うシステム的欠陥を持つことを知っているが、同時に経済報道が「論点ズレ」というシステム的欠陥を持つことを知るべきである。そうすることで、我々の経済報道に対する認識が変ってくる。それがこの問題に対する解決策の第一歩であると思う。

 

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