U ジャーナリストとメディア

 

 報道機関では分業がなされている。報道機関での分業は、同一の会社でそれがなされているためにあまり気がつくことがなく、我々はこの分業というものがどういう問題を生んでいるのかについてはあまり認識していないように思われる。このことはすでにマスコミの内部分業形態は、生産業と流通業の関係に近い、として第一章で述べた。ここでは、この分業形態が、ジャーナリズム、メディアにそれぞれどのような問題を与えているかを見ていきたい。

(1) ジャーナリスト達の持つ問題点

 前述したが、ここでいうジャーナリストとは「情報の製作者」を指す。新聞社やテレビ局、通信社などのメディアの社員である記者はもちろん、新聞の論説委員、テレビ解説者、また、メディアの依頼を受けて解説記事を載せるエコノミストなど、報道に関する情報を作る人すべて、ここではジャーナリストとみなす。このジャーナリストはどういう性質を持っているのか、そしてその行動規準であるジャーナリズムは、どんな問題を持っているのかを検証したい。

 

@ 客観性の欠如

 ジャーナリストは二種類存在する。ひとつはメディアに属する、いわばメディア内部の記者であり、もう一つは、エコノミスト、フリージャーナリストなどのメディア外部のものである。

 メディア内部のジャーナリストが作成する情報はメディアが発注する。どういう情報が世間に売れるかを判断するのは、販売を行うメディアの仕事であるから、メディア内ジャーナリストは「メディアに売る」情報を制作することになる。毎日の情報の製作者であって、発売元ではないジャーナリストは、注文を受けた以上は取材の結果という仕事・ノルマを求められる。報道の場合、ありもしない情報を制作するわけにはいかないので、今現在起こっている事実を取材するなり、解説するなりする。したがってメディア内ジャーナリストは「今現在起こっている事実(ないし新しく発覚した過去、もしくは過去の話題の続報)について、わかりやすく伝える」という報道倫理を持つことになる。例えば刑事事件などについては、最新の情報が適切である場合がほとんどであり、この報道倫理でも問題はないだろう。最新の情報が適切である、という仮定が全てにおいて適用されるならば、政治・経済についても、この報道倫理の「正しさ」に問題はない。が、経済という実態が極めて不明瞭かつ、多次元的な事象について、正確な、最新の情報というものはどこに求められるのだろうか。そして、その検討は可能なのだろうか。経済という事象には、正確な事実というのはなかなか見当たらない。が、経済という事象が生み出す産物は数え切れないほど「正確な事実」を持っている。株価、企業の収益率、政策の発表など、上げればキリが無いが、これをそのままに検討することは、断片的な正確さにはなれど、ほとんどの場合は適切な検討ではない。なぜなら、経済は一面を見れば全てが分かる、というものではないからだ。これではわかりやすく伝える、という作業が極めて難しい。しかし、メディア内部ジャーナリストなどは、ノルマに追われ、正確な基準が無い状態で、自らの判断によって情報を制作していかなけらばならないものであり、「客観的な判断」がむずかしいものとなる。

 一方、メディア外部ジャーナリストは、メディア内ジャーナリストとは発注される情報から違ってくる。メディア外部ジャーナリストに対しメディアが求めているのは、ジャーナリスト個人の見解という「主観」であり、はじめから客観性も何もあったものではない。

 よって、両者立場こそ違えど、その行動規準であるジャーナリズムにはあまり客観性は求められない。この客観性の欠如は後述する「継続視点の欠落」というシステム欠陥に大きく関係してくる。

 

A 少ないジャーナリストの日常批判

 日常には批判が為されにくい。我々が当たり前だと思っている行為については、批判的なことなどほとんど考えないのが普通である。例えば牛肉を食べるがために犠牲になっている牛の存在であるとか、のどじまんの鐘の基準が一体なんなのかとか、そういうことは、批判の対象になるということはほとんど無い。ジャーナリストも我々と同じ人間であるから、批判の目は非日常ばかりになりがちである。交通の取り締まりのやり方はおかしいとか、交通取り締まりの苦労についてなどの記事というものはまれに見かけるが、道路交通法そのものに疑問を投げかけた記事というものは見たことが無い。当然経済も例外ではない。厳しい目を持った経済ジャーナリストも、批判の目は非日常にばかり集まり、日常にはなかなか行き届かないものだ。

 新聞社の勤続経験がある高橋文利氏はその著『経済報道』の中で、「取材記者は情報をいち早くとることが仕事だから、常に取材先と良好な関係を保っていなければなかないと考える。」(5)と述べている。取材先に嫌われてしまっては、本当は知れるはずの情報も入らなくなるかもしれないから、当然のことかもしれない。が、「日常的に報道する対象になっている組織には、批判的になりにくい」(6)とも述べている。こうなると当然であると片付けることはできないだろう。高橋氏は、「大蔵省の記者クラブには新聞・放送各社とも熟練記者を多数張り付けているが、それが普段から手なずけられていることが大蔵省改革が遅れてしまった一因である」(7)と指摘している。報道というものは、動きがあったときにやっとそれについて報道するが、普段日常的に接していることについての批判というものは為されにくい。普段接している取材先を評価する、という作業もほとんど無いであろう。高橋氏は「マスコミが、今日政策決定に影響力を持っていることは否定できない現実である。問題はそれを定量的に測定できないために、内部の人間ですら意識することなく、また気付かずに過ごしていけるということである。」(8)と述べている。ジャーナリズムがただ起きたことを書いて、それだけについて検討する、というのは、分業の仕組みから仕方が無いことかもしれない。しかし、マスコミには、国民に対し、問題意識の喚起を投げかける「議題設定機能」という社会的な役割がある。非日常にしか批判の目が向かないのでは、現状に対する問題意識など国民に与えることはない。飼い慣らされているばかりでは、議題設定機能などないに等しいとは言えまいか。「今起こっている事実を正確にわかりやすく伝える」というジャーナリズムの正しさが、「今起こっている事象についてのみ取材し、体制について検討する必要はない」という勘違いにも似た弊害を招いているという点は、大きな問題として見逃すことはできない。

 

 しかし、こういったジャーナリズムの持つ問題は、ジャーナリストだけを責めるべきものではないだろう。ジャーナリストはメディアから与えられた仕事を忠実にこなしているだけのことである。ジャーナリズムの持つ問題点はジャーナリストを責めるべきものではなく、分業制が生み出しているシステム的な欠陥であるのだ。

 

(2) メディアの問題点

 先に定義付けしたように、ここではメディアとは報道機関企業の事を差す。ジャーナリスト達によって制作された情報は、メディアを通して発信される。情報の発注元であり、販売元であるのがメディアだ。報道は全く日の当たらないところに日の光を当てる、という社会的役割もないではないが、やはり企業としては、世間が欲しい情報という製品を、ジャーナリストに取材、制作させ、そして売り出すという事が一番の目的であるといっていい。

 メディアというものは報道機関であると同時に企業でもある。企業である以上は他の業態と同じように、会社ごとに社風を持っている。例えば報道機関として最も代表的なものである新聞社などもそういった社風を持っていて、例えば朝日新聞は左寄りのハト派で文化面に強いとか、読売新聞は右よりのタカ派で事件報道に強いとか、毎日新聞はリベラルで政治・社会に強いとか、そういう報道に関するスタンスを持っている。テレビにしてもNHKは中立で、テレビ朝日、TBS、フジテレビなどもその系列の新聞社と同じような性格を持っている。ことに報道にコメンテーターなどを擁するニュース番組などは、最近ではあるいは新聞より大きくスタンスを明らかにしているように思われる。このスタンスには、メディアごとの誇りのようなものも感じ取ることが出来る。ジャーナリストたちは、それぞれ情報の発注元であるメディアの社風や、一連の報道に関するスタンスといったものを吸収した上で、各個人の持つジャーナリズムを発揮することになる。こういったメディアごとに存在する社風・スタンスの是非であるが、世論が組みたてられていく上で、いろいろな意見が各報道機関から出ることは、議論の活性化の上でも、世論の選択の上でも、また言論の自由のためにも好ましいことではないかと思われる。メディアが社会的な役割を持つ報道機関である以上は、一般の企業のような営利主義よりも、常に社会に対して一石を投じていくスタンスをとっていることが望ましく、そういった意味でもメディアごとにある一定の意見を持ちつづけることは、報道の論点が一極集中してしまうことを防ぐ上でも必要不可欠であろう。

 

 しかしながらメディアは営利を目的とする企業でもあり、また報道機関として世論に対する影響力を保持する必要もあることから、ある程度「地位を保つ」行動をとらねばならない。具体的には、いつまでも同じスタンスをとって意見を変えないでいると、世論に見向きもされなくなってしまう、ということだ。世論に対してある一定の影響力を保つためには、ある程度世論を反映したものでなければならないし、必ずしも終始一貫した報道を取り続けることが正しいとも限らない。間違いを認める態度というのも必要になってくる。そういった意味で、メディアは時折行う世論調査により、世論と自分たちの意見とのギャップ、また国民が何を求めているのかというものを確かめ、確かに反映をしていかねばならない。

 間宮陽介氏は著書『同時代論』の中で一つのある大新聞社を取り上げて「この新聞の最近の保守化の傾向は目に余るものがある」としながら「商業主義だから、つまりそうしなければ経営が成り立っていかないから、というのは何の理由にもならない。いやしくも新聞が社会の木鐸を辞任するのであれば、批判すべきは批判し、守るべきは守るという姿勢を堅持すべきである。時には読者の意に染まないことでも警鐘を鳴らし、時代の風潮が正反対に変わっても自己の主張を貫きとおすというのでなければ社会の木鐸の名に恥じよう。」(9)_と現在の新聞のあり方に対する痛烈な批判を行っている。私もこの一説はメディアの有るべき姿の一面を示しているとは思うが、だからといって世論を全く反映しないいかがなものであろうか。例えば世論を全く反映しない新聞があったとしよう。読者は記事を読んで、考えるなり、人と話すなりして、自分の意見を持ち世論の一翼を担うことになるのだが、あまりにも新聞の意見と離れていたのでは、新聞記事に見向きもしなくなるのではないか。世論が全く反映されないのであれば、こうしてマスコミ世論と国民世論の間に大きなギャップが生じることになる。そうなった時、その新聞は果たして世間に影響力を持つ一定の地位を保っているといえるであろうか。前田壽一氏は同氏編の『メディアと公共政策』の中でマスコミ世論と国民世論のギャップについて、「それは長い目で見た場合、国民のマスコミに対する信頼にも影響は与えないとは言えないであろう」(10)と述べている。たとえイデオロギーに関する問題でも、全く世論を反映しないメディアの存在は、社会に対して利益になるどころか、世論の形成過程に報道が関与しないという結果を生むことになりかねない。それではメディアの存在意義など全くない、とはいえまいか。Tでも述べたとおり、報道はジャーナリスト、メディア、そして国民世論の三者間関係から成り立っており、それぞれ影響を受けるシステムであり、メディアだけが独走しうるものではないのである。

 

 メディアは「自分の視点について、ある一定のスタンスを保ちながら、国民世論を反映しつつ、情報を制作させ、そして世に送り出す。」という多少複雑かつ微妙なバランスの上で企業活動を行っている。どこに「ある一定のスタンス」と「国民世論の反映」とのバランスのラインを引くのか、という問題があるが、それは世間の事象に対し、左寄りであるとか、業界情報について詳しくあるべきであるとか、そういう観念的なものであって、必ずしも絶対にそうしなければいけない、というものではないから、はっきりしたラインが存在する訳ではないだろう。ゆえに、ここではメディアの行動規準を「自分の視点についてある一定のスタンスを保ちながら、国民世論を反映しつつ、情報を制作させ、そして世に送り出す。」として、見ていこう。

 ジャーナリストは受注した情報を作成しなければいけない、というノルマが求められたが、メディアは企業である以上は数字という結果を求められる。発行部数、視聴率といったものももちろん、世論の構築側として、ある程度の影響力もメディアには武器として求められる。こうして、世論を構築する側でありながら、世論を反映しなければならない。情報の発注、発売元であるメディアには、その立場ゆえに構造的な問題を持つ。その問題というものは次の二つがあげられる。

 

@ メディアの偏食

 メディアというのはすべての事象に対して平等に扱い、その問題に対して一つ一つスタンスを持っているという訳ではない。話題性の多いもの、疑問点の多大なものについて大きく取り上げる。つまりは面白い情報を優先する。国民世論を反映するという観点で見ても、よりニーズの強いものに対し、多くの情報を提供するのは、当然であるといえる。ことにテレビに関しては、ニュース番組にも、スポンサーからある程度の面白さが求められる訳だから、この点は顕著で、番組ごとに特集を組んだりする。しかしながら、面白い問題が必ずしも重要な問題とは限らない。メディアが面白い情報ばかりを偏食すれば、経済など、論点が非常に多岐にわたる事象に関しては、活発な議論が行われる場面にしてスポットを当てない結果を招き、地味だが重要な論点というのは日の目を見ないこともありうる。一つの政策論議に対し、必ずしも論点が一つであるというわけではない。それが市場という化け物を扱う経済の問題となるとなおさらのことである。例えば公共事業にしても、どういう分野に、どういう金額に、どれだけの金額で、どんな方法で行うことで、どんな業態にどういう影響があるのか、そしてそれは社会全体に対してどういう効果を持つのか、という様々な論点があるが、メディアは最もわかりやすく、最も議論の対象となりやすい、公共事業の金額ばかりに重点を置いて報道する傾向があるように思う。

 

A 世論の反映

 メディアが世論を反映していくのが、どこまでが許される範囲なのかというラインは取り扱っている議題にもよるだろう。例えばイデオロギー的なことというのは考え方の全ての根底に流れるものの一つであるから、急激な論旨の変更となると節操がないということになる。そういう意味では間宮氏の危惧はわからないでもない。経済の諸問題についても、それをイデオロギーの問題と捉えられないことはないが、状況に応じて変化すべき政策の問題に関しては世論と共に変化していかないとギャップが生まれることになる。大体変化するスピードの速い経済問題については間違った状態で一貫性を持ったらそれこそ社会の病理であるといえる。このあたりの「世論に対するメディアの迎合」はある程度仕方が無い部分もあるだろう。

 しかし一貫した報道姿勢というものが欠けると、世論と乖離するせざるに関わらず、政策の良い部分を打ち消してしまうという問題点がある。ころころ主張を変えていたのではメディアの信用にも関わってくるだろう。小塩隆士氏はその著書『市場の声』でマスコミにに一貫した姿勢が欠如していることを指摘している。小塩氏は、「平成不況の下で繰り広げられた民間エコノミストの主張は、驚くほどのワン・パターンぶりで新聞が自分達の主張にあうコメントだけを意図的に報道しているのかもしれない。新聞報道にも論調の波があり、政府の経済政策の肩を持つかと思えば全く異なる姿勢に転じるような展開を見せることもある。」(11)として「ジャーナリズム(ここではマスコミ全般の意味)はどうも迷走しがちである」(12)と半ばあきれたような書き方で批判している。メディアは確かに世論に迎合するなどして、首尾一貫した主張を見せているわけではない。

 新聞の社説なり、解説なりは、記者が書いたものであったり、エコノミストが原稿を書いたものであったりと様々であるが、なぜそれらがワン・パターン化したり迷走するのだろうか。その答えは新聞の論調というのはというのはあまり批判されない傾向にあるからだろう。たとえばエコノミストが書いた原稿というものは新聞社が原稿を依頼したもので、直接新聞社がその意見を発表したわけでないから批判の対象となりにくく、また社説にしても論旨はともかく、「このままではいけない」という姿勢に関してだけは一貫しており、市民はよほど注意してみて覚えておかないと、その矛盾点というのは発見しづらい。結果として批判されにくく、責任も薄い主張になりがちになる。

 

 メディアの問題点は、メディアが社会的な役割を持つものでありながら営利企業でもあり、そして、世論を作る側でありながら世論を反映しなければいけない立場ゆえに生み出される、構造的な問題である。メディアは我々の意見でも動くのであるから、我々はその問題点を認識し、監視の目をむけねばならない。そうすることで、メディアは社会の木鐸たるべき姿を保っていけるのである。

 一例を挙げよう。住専の不良債権処理問題について見てみよう。高橋文利氏著の『経済報道』には、最初は住専処理に公的資金導入やむなしの論調の社説であったのが、政治の対応のまずさと、世論の変化から社説の内容が変わっていき、やがて波紋を呼んだ住専資料公開から追加措置、新基金の誕生に至るまでだんだん手厳しくなっていく過程が明らかにされている (13)。大蔵省OBの天下りなど議論されやすい論点をメディアが偏食してとりあげる事で「論点がわかりやすいもの」になり、メディアが世論を反映して主張を変更することで、「納税者の視点」が問題に降りてきた結果、追加負担という形で税負担が軽くなったということはメディアのもつ問題点が良い方向に作用した例であるといえるのではあるまいか。

高橋氏はメディアが影響力を発揮する条件として「国民の関心」を挙げている(14)。メディアの偏食は、国民の関心のを取るために起こることであり、メディアのが世論を反映するのも、その問題に納税者の視点を組み入れるためにはある程度仕方の無い部分がある。メディアに内在する構造的問題は、翻って我々の反省材料でもあることを認識するべきである。

 

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