T 経済報道の現状

経済報道には問題があるといわれている。「報道の姿勢が首尾一貫していない」などとは一般によく言われていることである。伊東光晴氏はその著『「経済政策」はこれで良いか』で「時流にある人を登場させるのがマスコミである」(1)とし、責任のない報道の姿勢を強く批判しているが、では報道にはどんな問題があるのだろうか。以下ではそのシステムを検証した上で、報道批判にはどのようなものがあるのかを見ていきたい。

 

(1) 報道システム

 報道が持つ機能として、問題点がどこに有るかを検証していく上で、議論を生み出していく議題設定機能や、選挙報道、政策の発表などで、世論に対してどのようなものであるかを発表していく上で発揮される「アナウンスメント効果」といったことは政治学でよく問題とされることである。しかし、マスコミの社会的な役割というものは比較的によく論じられているが、経済と報道の問題として、実際にどういったことが問題とされているのかというのは、各方面に諸説あって論点が多すぎるからか、議論が進むことはあまりないように思われる。このような状況は、私には政府や報道がそれぞれ責任を押し付け合って、けなしあっているようにしか見えない。

 では、なぜ経済と報道の関係があまり議論されないのだろうか。それは、我々が、報道機関というものについて、間違った認識をしているからではないだろうか。報道機関は、事実をわかりやすく報道し、様々な問題を提起したり、すでにある問題について世論を作っていくという社会的な役割を持っている。それゆえ、報道機関は世間に情報を広く求め、それを取材するなり、検討するなりして情報を制作する。この時、報道機関では分業がなされている。社会では、物を作る側と、それを売る側で分業がされているが、報道機関では、同一の会社でそれがなされているためにあまり気がつくことはない。しかし報道機関でも、情報の制作と、それを売るという作業は必ずしも同じ人間がするわけではないのであって、やはり分業は積極的に行われているのである。我々はこの分業というものがどういう問題を生んでいるのかについてはあまり認識していないように思われる。

 ここで、ひとつ定義付けをしたい。報道される情報というものを制作する人達をジャーナリスト、そしてジャーナリストの行動規準をジャーナリズム、対して、作られた情報を世に公開し、またどのような情報が必要であるかジャーナリストに発注する報道機関、すなわち、情報の販売主体である企業を「メディア」と定義付けしよう。もちろん、情報の販売主体であるメディアは、求める情報を発注している以上は情報の制作主体でもある。しかし、常に作る情報が新しいものである報道は、記者が直接情報を切り売りしているわけではないから、情報を制作するジャーナリストと、それを受注、販売するメディアという分業で見た方が適切であろう。ゆえにここでは「メディア」を単に販売主体であるとみなしたい。メディアという言葉は本来、報道に関する全てを含む言葉であるが、ここでメディアというものを単なる営利企業とみなす以上は、本来の意味とは若干ズレてしまう。そこで、ジャーナリスト・メディアを含む全ての報道に関する組織を「マスコミ」または「報道機関」、それによって流される情報を「報道」とすることで混乱を避けたい。

 

 では分業されている報道システムについて見ていこう。報道は三者間関係から成り立っている。一つは情報の製作者であるジャーナリスト、その情報の発注・販売者であるメディア、そして売られた情報を買って需要する国民世論である。情報を生産物とみなせば、生産業・流通業・家計の三者間関係に近い。言ってみれば、マスコミの批判を行う政府関係者ないし経済学者達は、生産・流通業の両方をまとめて「マスコミ」としてとらえて評価しているわけで、それぞれの立場を考慮しない。これでは的を得た議論など出来るはずがない。ジャーナリストは、悪意を持ってその情報を制作しているのではなく、メディアから仕事を受けて情報を作っているだけであるし、またメディアは国民世論のニーズに応える情報を売らねば仕事にならない。我々は、報道が分業されているところにシステム的な病理を抱えている、という所に着目しなければならない。

 

(2) 報道に対する批判

 報道に対する批判というものはどういうものがあるだろうか。かつて新聞社に籍を置いていた高橋文利氏はその著『経済報道』の序章の中で、いくつか批判されている報道の問題点を挙げている。

@  足りない「影響力の自己認識」

 高橋氏は「マスコミの影響力については、しばしば『報道されない事実は存在しない事実であり、報道された事実が一人歩きする』といわれるが、わたしの経験からすれば、日本のマスコミの場合は経営トップから現場の取材記者まで含めて、みずからの影響力の大きさについて的確な認識を欠いているといわざるを得ない」(2)とマスコミの影響力に関する批判を取り上げ、その問題点が自己認識の欠如であると指摘した。自分の影響力を認識しないものというのは、自分の言葉に責任を持つ必要性を感じないであろうから、これは確かに大きな問題点であると言って良い。我々にとって、経済などの社会事情に対する情報源は、多くの場合マスコミに限られる。報道された事実だけを事実と知る我々には、無責任なマスコミの報道は確かに許されるのものではないかもしれない。しかし、報道された事実が一人歩きするのは、マスコミが意図的に操作してそうなっているわけではないし、また世論形成のための情報を一切合切すべてマスコミが伝えるということも難しい。影響力の自己認識の欠如は、ジャーナリスト、メディア側ともに抱える大きな問題ではあるが、たいした検証もしないでマスコミだけを悪玉扱いするのは早計であり、責任を取らせなかった世論側にも大きな問題があるといえるだろう。

 

A  一貫性の欠如

 経済報道は一貫性を欠く、というのは良く言われることである。高橋氏は、「バブルとその崩壊後の経済政策については、『マスコミがバブルをあおり、崩壊後は景気対策を遅らせて傷口を大きくした。』という批判が出ている。」(3)ため、当時の新聞社説を検証した結果、「マスコミの主張はしばしば一貫性を欠き、状況が変わると社説の内容も変わるという事実を改めて認識せざるを得なかった。」 (4)と記している。後述するが、私は新聞の論調が時期とともに変わるのは、ある程度仕方が無いと考える。報道の一貫性の欠如が問題であるのは、その影響力ゆえに「バブルをあおり、景気対策を遅らせる」ような、政府の政策を無効にしてしまう働きにある。しかし、先に述べたように、報道はマスコミだけで成り立っているのではなく、ジャーナリズム、メディア、国民世論の三者間関係で成り立っているのであり、この場合メディアに変節を求めた国民世論のニーズにも、大きな責任があったといえ、この「一貫性が欠如している」という批判も報道の問題を正確にとらえているとは言い難い。

 

 以上のように、報道が受ける批判を見てきたが、マスコミには必ずしもそれ自体に問題があるというわけではなく、一概に誰が悪いとは言えない。では、なぜこのような批判が出るのであろうか。以下では、報道システムそのものがかかえる病理を検証し、報道の真の問題点である「報道の論点ズレ」がどういうものであるか解き明かしていきたい。

 

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