ジャスティス〜大人の言い分、子供の主張〜  

 正義とは何か?正しいものとは何か?いまひとつ、わからないでいるのだ。前向き、という言葉は、前を向いて歩くという意味ではあるまい。それなら、後ろに進んでも、自分が向きを変えれば前向きになる。前がどっちかわからない。いまひとつ、前向きの意味もわからないでいるのだ。なんとなく、「明るく過ごせるための生きるエッセンス」を見つけるのが、世間で言うところの「前向き」なのだと思う。でも、たとえば人の不幸が楽しいものだとして、それを心待ちにするのが果たして前向きなのか?たとえば、自分が何かを独占して、人に恩着せがましく分け与えるのが前向きなのか?いいや、違うだろう。他人が壁にぶつかるのを、体をはってとめるのが前向きだと僕は思う。自分が飢えてでも、みんなで生き抜こうと食料を等分するのが前向きだと、僕は信じる。正しいと信じることのために生きる、それが前向きだと思うのだ。しかし、いまひとつわからないでいるのは、何が正しいことなのか?僕は自問する。何が正しいのかと?僕は自答する。何が正しいのか、考えること、それこそが、正しい道を照らしているのだと。正しいと信じた瞬間、考えは感情に変わり、感情は愛憎を生む。だから、何が正しいのかわからないことこそ、正しいのではないか?

 ちょうど今、僕は壁にぶつかっていて、普段占いなんか信じないくせに、タロットカードに思いをはせたりする。タロットカードの8「正義」を思うのだ。タロットの正義は聖剣をもって善悪の裁きを誓い、天秤を持って罪と罰、そして善と悪をはかりにかける。なぜ、はかりにかける必要があるのかといえば、正義は感情に動かされてはならないからだ。常に冷静をもって、真実をはからなければならない。ジャスティス、それは理性の賜物。しかしながら、正義を求めるのは、常に感情。人は感情の動物。全ての人が理性的であれば、正義など必要ない。ジャスティス、それは感情の産物。

 壁にぶつかっていると書いたが、実のところ、そんなになまやさしいものではなく、絶望しているといって大きく違いはしないだろう。だから、僕はこの激情の渦の中、ジャスティスを求めている。正義とは何なのか?前向きとは何なのか?僕はどこに行くべきなのか?こんな激情の中だからこそ、僕は正しさを求める。たとえば、宗教などはそうだろう。多くの宗教は、迷える人々に何が正しいのかを明確に導く。信じるものは救われるという。それは神であり、その宗教の教えである。絶望する人を導くからこそ、神は偉大であり、絶対となり得る。僕は、そういうものを踏まえた上で、バランスを求める。僕の信じるものは、神ではない。神を信じないではないが、判断を委ねるのは怖い。かといって仏でもない。もちろん、自分は曹洞宗の檀家の人であり、仏教徒と言えなくもなく、無論仏を信じないではないが、導く声が聞こえてくるわけではない。般若心経を唱えて心が安らぐことはあっても、明確に進むべき道が見えるわけではない。それを教えてくれるのはキリストでもアラーでもなければ、太陽でも月でもない。信じるものは、自分と、その信念。判断できるものは明確な理由あってのこと。ただ、その信念を通して、正しさがわからないからタチが悪い。なぜわからないのか?それは、正義が感情の産物でありながら、理性の賜物であるからだ。僕の信念は、感情と理性のバランスを通りながら存在している。さまざまな神や仏たちが、理性や感情を超越したものであることはわかっている。しかし、自分で実感したいのだ。悩んで、つかみとりたい。正しさとは、何なのか?なにを目指して進むべきなのか?

 感情のまま生きることが出来れば、それはきっと正しいのだろう。自分のやりたいようにやるわけだから、きっと悩まない。理性をもって感情を抑えていけば、それはきっと正しいのだろう。仕方がないと許し、冷静に判断し続けて行ければ、感情も爆発しない。悩むこともあるまい。しかし、どちらも無理なのだ。人間である以上、感情のまま行き続けることは環境が許さない。感情を抑えることは自我が許さない。きっと感情のまま生きているのは幼い子供なのだ。たいして、理性をもって感情をコントロールすることが悟りを啓くという事だろう。仙人にならない限り、無理なのだ。だから、人は、大人になるにつれ、感情をコントロールしようとし、反発する。いずれ、妥協を覚え、社会に諭されて埋没する。思春期や五月病などは、感情と理性の葛藤。悩まないのは無理だから、何処かでバランスをとろうとする。どうすれば大人になれるのだろう。どうすれば、社会に埋もれないでいられるのだろう。僕は子供のころからずっと考えてきた。そして、許せるのが大人で、許さないのが子供という結論にたどり着いたのだ。

 子供はワガママだ。幼ければ、おもちゃ売り場で駄々をこねるように、欲望のままに生きていく。しかし、ある程度自我に目覚めれば、自分の正しさを主張するようになる。あるいはワガママでい続ける大人もいるし、自分だけが正しいと信じ続ける大人もいる。しかし、きっとその人たちはまだ子供なのだ。人間として子供でなくても、自分の正義を貫く、悲しいほどに純情な大人もいる。悲しいほどに、大人になれない大人もいる。自分のために、そして周りのためにも、許せないものを許さない。自分を貫き通す。それは僕の目標ですらある。僕の憧れですらある。しかし、許せないものを許さないために、他人を犠牲にしないためには、ある程度自分を犠牲にしなければならないという十字架を強いられる。他人のワガママを許さないために、自分のワガママを封じ、他人の横暴を許さないために、他人に煙たがられる役目を得てしまう。正義であろうとするがゆえに、他人を遠ざけ、他人を傷つけてしまうジレンマを、子供は抱えている。子供であることは正義であり、子供であることは悪である。

 大人はあきらめる。妥協も極まれば、許すということが即ちあきらめになるぐらいに、何も求めず、ただ流されるままに受け流す。人との関係の中でしか人は生きていけないのだから、それはある程度仕方がない。しかし、人との関係の中でしか生きようとしないのは、果たして正義なのだろうか。何もかもをあきらめ、適当になあなあで、なんとなくすごしていく、それが正義だろうか?刹那の一瞬をなんとなく生きることで、いったい何を得られるというのだろう。許すべきものを許し、裁けるものを裁いてこそ本当の大人。もちろんそれは、僕の目標である。僕の憧れである。しかし、大人であろうとする以上、裁くことをあきらめ、妥協することを強いられる。裁かなければいけない立場にあって、裁くことをあきらめ、ある程度の悪をゆるさなけらばならない、ジレンマを大人は抱えている。大人であることは正義であり、大人であることは悪である。

 僕はいったい、どれだけ子供でいられるだろう。僕はいったい、どれだけ大人になれるのだろう。正義とは、大人と子供の間を綱渡りする、微妙なバランス。客観的な事実は、それが客観的な事実であると「認識」された時点で主観的な事実に変わる。それは即ちデータ分析と呼ばれるものであって、客観的な事実を集積することで、過去の真実は見つけられるかもしれないが、先を見つけることは誰にも出来ない。だから、バランスをもって、考えていくしかないのだ。ジャスティスのカードの天秤が示す重さは、大人の子供のバランスは即ち、帰納と演繹のバランス。客観と主観のバランス。許容と限界のバランス。認めることと貫くことのバランス。罪と罰のバランス。他人と自分とのバランス。世間と自我とのバランス。環境と生命のバランス。バランスを失うとき、そのバランスを奪うものを斬って捨てる。それが正義。しかし、僕は、それが正しいのかどうかは、いまいちわからないでいるのだ。

 斬って捨てる。斬って捨てられたものは、悪かも知れない。が、斬って捨てられた悪は、正義と信じていたかもしれない。そこが難しい。しかし、バランスをとらなければ、社会が成り立たない。同時に、個人でもバランスをとらなければ、生きていけない。そして、バランスをとらなければ、あきらめしか得られない。

 何が正しくて、何が間違っているのか、それはわからない。正しいと信じた瞬間、考えは感情に変わり、感情は愛憎を生む。互いに正しいと主張しあうものを裁くのは数ではなく、客観的な事実であるはずだ。しかし、客観的な事実は、個人が認識した時点で一個人の主観に変わり、主観は多数を持って一般を生む。一般的な事実は、決して客観的な事実ではない。ここに争いの種がある。ここに、バランスが取れないジレンマがある。きっと僕が考えている正しさは、誰かにとって正しくて、誰かにとっては正しくないものなんだろう。しかし、僕は考える。僕の行くべき正しい道はいったいどこにあるのだろう。ずっと考え続けていく。考えている限り、きっと僕にとっての正しさには近づいていけるはずなのだと信じている。実際には永遠にたどり着けないことはわかっている。だけど、ずっと考え続ける。激情の中、僕は考える。僕の正しい道はどこなんだろう。僕はもっと大人になりたい。僕はずっと子供でいたい。絶望のふちにあって、希望を見つけるために、必死でもがいて、必死に考える。

 だって、許せない!つまらない!傷つけたくない!面白くない!あきらめたくない!僕は僕である以上、僕を捨てることは出来ないのだ。

 でも、許してあげよう。受け入れよう。あえて壊そう。裁こう。そして癒そう。自分も我慢しよう。ある程度、あきらめよう。僕が社会にいる以上、許さなければ、生きていけないのだ。

 正しいことなんてわからないけど、ずっと求め続けなければならないと思うのだ。僕がここにいることの意味なんて特に無いと思うし、考えたって仕方がないけど、でも、なぜか、やっぱり、正しくありたいと思うのだ。そうでなければいけないと思うのだ。でも、いつまでもたどりつけないでいる。いつまでも、たどりつかないでいる。そうするしか仕方ないなら、そうしないと仕方ないと思うのだ。正しい道を行こう。どれだけつらくても、行こう。行くしかない。いまさら引き返せない。ここまできた以上、つらさから逃げるためには、進む以外にない。逃げ出すことでは逃げ出せない。

 わからなくてもかまわない。わからないままいくしかない。そこがその道だと信じ、たまに振り返って正しいか確かめながら、正しいほうに直しながら行こう。無ければ作って進めばいい。正しい道を行こう。きっと僕なら行けるのだ。行ってみせる。

珈琲なら何でもいい

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