さよなら神光寺駅

 僕がカメラマンのあまりの多さに疑問を抱いて、母に理由を聞いたのは就職活動をするようになってからである。ちょくちょく岐阜から名古屋の説明会や、試験に行く時、美濃町線を乗るようになったが、窓からやたらとカメラマンが多く見える。そう思うと、消えゆく美濃町線に乗っている自分が、妙に感傷的になっているのに気がつく。

 ちょうど僕が就職活動の真っ最中、美濃町線はその役目を終えようとしていた。いってみれば、受験やら就職の面倒まで見てもらったのだから、さながら僕は美濃町線に独り立ちを支えてもらった事になる。僕はたまたま廃線八日前の美濃町線に乗っている。中の人達は、全くいつもと変わらず、やる気があるのか無いのかわからないような顔触れが数人、つまらなさそうな顔をして乗っていた。いかにも美濃町線らしい廃線前夜だと思った。夕闇をきって、がったんごっとんと美濃町線は揺れる。別に悲しそうな響きでもなく、かといって誇らしげな顔をしているわけでもなく、ただただいつもと同じように、つまらなそうな顔をした人達を、つまらなそうな顔をして乗せている、無愛想な電車のままだった。こいつは機関車トーマスには出演できまい。

 その日にすぐ福井に戻った僕は美濃町線のさよならパネルを見る事はなかった。友達いわく相当な込み具合だったらしい。カメラも人もごった返したそうだ。

 果たして美濃町線そのものは、そんな別れ方を望んでいたのだろうか、と思うと若干の疑問が残る。美濃町線はなくなるべくしてなくなったのだ。全く地元とは関係ない人達、鉄道マニア達が集まってそれに乗っかっていたのは、それは果たして最後の仕事だったのか。いつものように、やる気の無い学生と、生気の無い老人を載せて、がったんごっとん、揺られてはしってこそ美濃町線なのに。別れる時だけもてはやされる、そんな事をきっと590系は嘲笑ったに違いない。なぜなら、美濃町戦の廃線を悲しんだのは、多くの学生と、ちょっとの爺さん婆さん、そして膨大な数の鉄道マニアだったのだ。誰に愛されていたのか、そう考えると、本当に美濃町線を愛していた、線路わきすぐに住んでいた僕なんかは、複雑な気分になる。

 

 時は流れて。僕がおばあちゃんに美濃町線の事を聞いたのは美濃町線の鉄道線が撤去されるしばらく前の事だ。

「電車無くなったでなあ。不便でしゃあない。」

とおばあちゃん。僕にとって意外な答えだった。が、

「電車がこおへんもんで時間がわからへんでな。前は電車が来たらああ、今は何時やってわかったのに。」

とこの程度。地元住民にとって美濃町線はこの程度だったという事をあらわす一言だ。実際のところ、名鉄神光寺駅から長良川鉄道中濃西高前駅は300メートル、名鉄下有知駅から長良川鉄道関市役所前までは700メートル、名鉄松森駅から長良川鉄道松森駅、美濃駅から美濃市駅も、ほとんど距離という距離はなく、不便さはほんの少しだ。若干美濃町線より長良川鉄道の方が運賃が高いのが難点といえば難点だ。

 また就職活動で名鉄美濃町線、新岐阜から関までの区間を乗ると、たまたま郡上八幡方面に向かう私立富田高校の生徒のおしゃべりを聞く事ができた。

「なんか知らんけど名鉄と長良川鉄道つながったからよお、すげえ学校とか岐阜行くの便利になった」

美濃町線の廃線は皮肉にも多少の人の不便さと、また便利さも産んでいる。

 

 

 

 今でも、実家に帰って車に乗ると、ちょっと前まで踏み切りだったところでついつい一時停止しそうになる。美濃町線の線路は、敷石を除いて全てがなくなってしまっている。たまに散歩に出かけると、神光寺駅のところで県外ナンバーの車を見たりする。そして満足そうに、そして少し寂しそうに写真を撮って帰っていく。

 一方、かつてワンマンカーだった590系はどこに行ったかというと、なんとストップボタンが取り外されて、まだ美濃町線の新岐阜、新関間、そして徹明町区間という新しい方面で活躍中だった。彼にとってはこれは嬉しい事かもしれない。しかし、彼がそちらに導入された事はあまり僕らにとって嬉しい事でもない。よく分からない乗り換えが妙に増えたのだ。さっさと命を終えればよかったのに、と思う。おそらく、旧美濃駅あたりと共に保存されれば、そこそこの名所になっただろう。

 一方でわれらが神光寺駅はもともとぼろかったのが、ますますぼろくなって残っている。僕はそこをとおるたび、もと踏切があった場所で必ず一時停止しそうになった後、苦笑いしながらこういうのだ。

「さよなら。」

 

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