僕と美濃町線

 岐阜県関市民と、美濃市民の多くにとって美濃町線はさほどに重要な路線ではなかった。何故なら路線上に街はないのである。買い物にいくのにも時間がかかるし、ついたところでさほどの街はなく、無理矢理捜して岐阜、名古屋。すでに名鉄線上の遠いかなたの町である。

 僕の小さい頃の美濃町線は、美濃と新岐阜の間を、新型車両とまれに連結できる回転クロスシートを持つ車両、そして札幌電車と呼ばれるポンコツ車両が、15分に一度我が家のすぐ近くにある神光駅で必ずすれ違いながら走り、車掌さんが切符を切るなかなかに便利な電車だった。当時はまだ新関駅のまわりも、美濃駅の周りも、そこそこに街だったのだ。しかし、マイカー王国である岐阜県で、いつまでも路面電車を走らせていても誰も乗らない。なんせ路面電車は遅い。みんなが思っている予想以上に遅い。何故なら路面電車は都会の町の中を走るべき物である。田舎の田んぼの中を路面電車が走れば、その低速はもはや目を覆わんばかりである。そんな電車に乗るぐらいなら、車に乗った方が圧倒的に速い。そうして、じいサンばあサンが車にも乗るような世代に変わっていくと同時に、男女かかわらず全て免許を取る時代に変わっていく。なんせ田舎である車の置き場所には事欠かない。そうやって車に乗る人が増え、名鉄電車に乗る人が減る一方になると、当然のごとく、運賃は値上げされ、本数が減っていった。僕が小学生の頃には三十分に一回のワンマンカーに、中学生になると一時間に一回しか通らなくなっている。そうなるとますます利用者が減る。自然、駅の周りの商店街は、半分近くシャッターを下ろすようになる。同時に、次々にオープンしていく郊外型大型店舗。電車に乗る人は岐阜、名古屋にちょっと出かけよう、という人、毎日使う一部高校生、そして病院にいく爺さん婆さん。そしてごくわずかだけ、商店街でしか買い物ができないような世代の婆さん。それだけが乗る電車となった。

 僕の成長は奇しくも名鉄美濃町線の衰退と時を共にする。僕の体力がまだ無く、母が免許を持っていなかった小学生低学年の当時は、何処にいくにも15分に一度でる便利な美濃町線だった。そして高学年になって頻繁に自転車に乗り始め、行動範囲が広くなると、ちょっと岐阜、名古屋に行く時、そして雨の日に買い物に行く時に、30分に一度だけ出る美濃町線に乗る。雨の日でも自転車に乗り、岐阜に行く時も自転車に乗っていくような中学・高校時代には、母も免許を取って、また電車の沿線上に街が無くなった事にも起因して、学校に行くのも買い物に行くのも、そして岐阜に行ったり名古屋に行ったりするのにも、全て美濃町線の関、美濃間を経由しなくなってしまった。60分に一度だけ出るワンマンカーの美濃町線にはよほどの事が無い限りは乗らなかった。

 そして大学生になると岐阜県を出てしまう。福井県に来てからは、こちらもとてつもなく遅い電車である京福電鉄線に極々稀に乗る、というありさまで、美濃町線とはすっかり縁が切れてしまう。

 当然、美濃町線は廃線が検討され始めた。僕が小学校高学年になるとすでに2年後には廃線にしよう、という案が出ていたのだ。

 

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