2000年6月15日   現代社会科学のスピード

 理由あと付け主義山中です、こんにちは。私が理屈っぽいのは、たぶんに自己弁護のためです。劣等感と自信の二つを強大に持っている私は、自分のやっていることに何でも理由をつける、つまり、全部後付けの理由です。この行為と言うのは至極便利なもので、何をやっても大丈夫な部分が大きい。

 学問には、陽明学と言うものがあります。いわゆる何でも良いから行動を先にしていく、実行しないことは考えない、というものです。私の場合は行動した後に理由がついてくるのですが、陽明学は実行できることしか考えないと言うことで大いに相違しています。私の考えは、理由が後付けになりがちな現代において、至極現代人として、また社会科学的にも適合しているように見えます。が、仮説と検証という現代科学、とりわけ社会学の基本中の基本と私の考え方を見ていくと、むしろ陽明学に近いように思われるのです。

 本来先にくるべき理由がまったく後になっていると言う点で、私の考え方と言うのはすでに陽明学とは遠くかけ離れ、むしろ対極にあるように思えるのですが、それがそうでもありません。現代社会科学がはるかにねじれているおかげで、私の考え方はむしろスピードのあるものに思われます。現代社会学と言うのは仮説をたて、それを検証し、実証していくことである一定の法則を見つけ出し、そこから対策と言うものをひねり出していく帰納的かつ演繹的なものであり、非常に優れたものであるとは思いますが、スピードがあるとは思えない。理由が先にある陽明学はべつとして、現象を拾い上げ、仮説をたて、結論を導くはずが、他の意見に飲まれ、仮説そのものの信憑性を大議論するような現代社会学と、私のただの後付け理由策とでは、スピードがぜんぜん違う。

 体罰がどうの、教師がどうの、警察がどうの、青少年犯罪がどうの、理由ばっかり追いかけて、仮説ばかりが乱立し、それを全部検証していくと言うやりかたでは、演繹的なものを導かせるのに、よほどの圧倒的な信憑性、説得力をもたねばならない。そうなるとどうしても権力者を必要とするのです。学問は、そこから何かを導き出すことが出来なければ全く意味がない。歴史は繰り返さないのであれば学ぶ意味がない。しかしながら、そういったことが民主主義では学問から何かを導き出すことが極めて難しいのです。なぜなら、仮説がいくらでもたつからです。であるならば、理由を先に探すのではなく、方法から見つけ出し、それにあとから理由をつけていく方法のほうがスピードがあると言うことは言うまでもありません。私は世間の考えを全く正しいものと仮定して方法を導き出し、その矛盾を見つけては嘆いている極めて生産性の低い考え方をしている人間ですが、少なくとも、「文句言うならテメエでやってみろ」、という一つの答えを持っています。

 例えば、いじめがどうしてなくならないのか、と考える前に、自分でなくす方法を考えることです。単純で良いのです。四の五言わずに明確な基準を持って裁く。理由なんてあとからいくらでもついてきます。現代社会学は、優秀ですから、すでにそれを発見しています。公共選択論などで、すでに民主主義の限界を発見しており、その方策についても話し合われている、のにもかかわらず、うまくいかない。これを合法的に行う方法が、人気者の登場と、民意のコントロールです。つまりはいわゆるマインドコントロールによる閉鎖系の現出です。例えば法律なんかは誰が決めたかわからないようなルールをみんなの意見としてまとめてしまったもので、閉鎖系現出ルールと言えます。

 観念論ばかりが話し合われ、言葉じりを捕らえて責任問題にしてしまうような現在の政治に閉鎖系など現出できるはずもなく、そういった閉鎖系を拒む逆説的な閉鎖系がマスメディアによって作られていく、「とりあえず批判」の世の中において、学問の出来ることと言うものはほとんどありません。ならば、答えを持った救世主(メシア)が現れるのを待つしかない。そういう結論と言うのはエリートであるほど持っておかしくないでしょう。そういうところに宗教(あるいはカルト)の大いなる可能性が含まれている。陽明学の可能性も閉鎖系の現出にあります。現代社会学はもし強力なカリスマが登場したら、例えばたかが美容師でさえ解明することは難しい。ガングロもゴングロも然りです。閉鎖系現出ルールをわかっていながら使用できないのです。仕方がないから断片的な事実だけを取り上げ、逆説的閉鎖系ばかりを現出していく。おかげで社会に統率はなくなって、規律が失われていく。知れば知るほど、ルールは失われていくのです。自分の意見すら、もてない社会がついにやってきたのです。

 ここまで言ったらわかると思いますが、たかが美容師、たかが料理人がカリスマと呼ばれるような現代社会において、オウム真理教のような閉鎖系の現出と言うのは至極簡単なことです。美容師、料理人というものは文化の担い手であって社会を動かす人間であるはずでないのに、文明そのものが大いにゆれていく。おかげで文化そのものがちっとも発展しないで、危険ばかりが大きくなる。だまされてはいけないことは、僕らは現代人である以上、すでに大いなる閉鎖系のうねりの中に体を置いていると言うことです。で、あるならば、自分の考えなどはもたないほうが安全である、インテリにならないほうが安全である、そういう結論を持つことも一つ。なぜなら、現代社会額の枠組みは、知れば知るほど危険だから。

 以上、私が投票に行かない理由でした。これだけ長いあと付けの理由をつけられるほど、私にはスピードがあります。

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