2000年4月10日   勉強量と民主主義

 更新する暇がない山中です、こんにちわ。

 社会人は何がすごいのかというと、勉強量で、はっきり言って学生とは比べ物にならない情報量を、短時間で、しかも体で覚えるわけです。僕の場合は圧倒的に理屈っぽいので、仕事をものにするために、予習復習するなどして体系化しなければならない作業を伴うわけで、おかげでテレビも新聞も見ないという生活です。でも社会人みんな、仕事のほかはほとんど遊んでいるものだと思えば、遊ぶのにも忙しいわけで、まあ私なんかは暇なほうなわけで。 こんな中でみんな選挙とかの情報を仕入れるわけですが、無理に決まってます。忙しいのが前提の資本主義では、情報は新聞のみ、テレビのみ、雑誌のみという偏った情報源の中から得ることになるわけで、そうなるとメディアリテラシーとかそんなもの関係なくなるはずです。なぜなら、それ以外に判断基準がないので、読み取る力もクソも無い。結果、今までの経験と知識のみで生活しなければなりません。そうなると時代とともに変わるということはできず、また小売なら小売、メーカーならメーカー、製造なら製造というフィルターを通してやたらと恐ろしい判断力と知識を得るわけです。優秀な人間であればあるほど、情報解析能力は高くなるわけですから、フィルターから除いた風景というものはひとつの『世界』になっているわけですね。

 そうなると、その人にとってフィルター外からの情報量は取るに足らなくなり、結果、物事の判断基準は高いレベルながらも、一般性とは少しずれるという現象が起きます。まあ、何ヶ月前かに書いた『閉鎖系』が、仕事を通して生まれるということになるわけですが。こうなったら、同業多種の人たちなどの間に考え方は、仕事のノウハウなどから一つの流れに集約され、やがて当然のごとく組織票に近いものが生まれるわけで、それに政党が利害関係などを利用して組織すれば、まあ間違いなく組織票というものは誕生します。逆にいえば、無党派層というものは仕事に対するフィルターができていない、つまり仕事に対してさほど情熱がないということが言えるわけで、この人たちにメディアリテラシーなどを求めても、おそらくそんなものを覚える情熱はないでしょう。これは悪い意味ではなく、学生時代そうだった僕がそれを実感しています。そんなもん知る暇があったら何ぞ楽しいことをしたいわけで、他のことをやろうとするのははっきりいって情熱の無駄遣い、その上世の中はその人にとってどう変わろうと関係ありませんから。

 そうなれば適切な判断ができる人というのはいったいどれだけいるのか?1割いませんよ。

 で、民主主義は数の問題になるわけで、派閥など、そういう論理を支えているのは、皮肉にも民主主義という結論が導き出されます。と、仕事の復習の休み時間に考えたりするのですが。

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