えー、何を言われようと「趣味だからほっといてくれ」とか、「俺の勝手やろ」とか、どうこう言われるのが嫌な部分ってのは誰にでもありますよね、孤高の天才児ヤマナカです、こんにちは。このほっといて欲しい、というところは、自分独自の価値観という点で、他の人と簡単に相容れない部分があるので、閉鎖性、と呼びましょう。例えば僕がうちわを集めているということなんて、分かってもらう必要なんてないことです。

 この閉鎖性ですが、同好会、ファンクラブ、大きい所で行けば宗教ですとか、そういったサークル、コミュニティは、この価値観を共有することが出来、こういう時、その人は楽しく、気の会う仲間達と知り合うことができます。メリットははかりしれません。一個人が、その場で楽しい、友達が増える、個性の発言の可能性が高まる、その領域の知識について特化される、精神状態が安定する、などなどです。例えば、うちわ同好会なんて、これ以上無いくらい内輪受けな連中で、だからなんやねん、というものですが、うちわ探索、うちわを持つことによる個性の発現、うちわ仲間の発見などまあよく分からない連携を持つことが出来たりするわけです(このあたりたとえが悪い)。

 しかしながら、こういったコミュニティというのは大きな危険性も持っています。メリットが多種多様を極めることと比べればこの危険性、デメリットというものは一つしかなく、微々たる物で、しかも気をつけていれば、なんでも無いことである、と前置きしておきましょう。それが、「一般性の麻痺」です。共通の価値観というものは、やがて一つの点から、より多くの点に伝播しがちです。自分にとっての一般性というのものが、そのコミュニティ内だけでの常識とかわってしまうことがあります。一番分かりやすい例といえば、やまんばルック、厚底靴、ルーズソックスなど、外部から見たら「なんじゃこりゃ」というものが、同一コミュニティ内ではその価値観が普通になり、それ以外のものが考えられなくなってしまうとものが挙げられます。今後はその閉鎖性を共有した同一コミュニティーを、閉鎖系、と呼びましょう。

 このあたり、よくある話です。原子力発電所の是非、遺伝子組換食品、消費税、貿易問題など、その善悪は、周りが判断し、それによって知識を得た自分が、さも正しいかのように振る舞うってのは日本人によくある話で、このあたりは、私に言わせれば「何でそうなるのかなあ」と思うほど理解が少ないですね。イデオロギー論争も、概して閉鎖系同志による子供の喧嘩になることがきわめて多く、また喧嘩にならない場合、これが厄介で、日本人はちょっと暴走します。司馬遼太郎氏は「日本にしか『いじめ』、またはそれに類する概念は存在しない」といってらっしゃいましたが、そのあたりが原因ではないかと思います。日本人はきわめて、閉鎖系が暴走しやすい気質であるようです。

 まあ太平洋戦争などはこの閉鎖系の「全体化」が為せる技だったといっていい盲信ぶりでしたし、また、最近多いカルトの事件、東海村の臨界事故における従業員、取りたてを行う暴力金融なども、善悪の判断を麻痺させてしまったこの閉鎖系の問題といって差し支えないと思います。

 それにしてもちょっと最近多すぎると思いませんか。

 あるいは、「閉鎖系でないのに一般性を失っている人達」というのも、最近はちょっと多すぎるように思いますが、このあたりも、社会がこの「閉鎖系」というコミュニティの存在を認めすぎたが故に、自己の閉鎖性を感知する能力を個人が失いつつあるのではないか、とかんぐりたくなるほどです。

 つまり、同一的なコミュニティが増えたのにもかかわらず、町の井戸端会議、あるいは寄り合いのようなサロンというものが絶対的に減ったために、社会が一般性の欠如そのものを「個性」と見間違えてしまっている、と言い換えても良いでしょう。

 また学校も古くは子供たちのサロンであったはずであり、まだ社会性を持っていない子供たちが、ケンカすることでそれを身につけていくものだったと思うのですが、子供のケンカの完全否定、親の不熱心、体罰の否定など、サロンという「ルールを共用するコミュニティ」の成立条件が、これでもかというほど取っ払われて、閉鎖系コミュニティ複合体になってしまっているようです。こうなるとお互い、「閉鎖系の存在をお互い認めながら」一つ一つのコミュニティーが暴走するという状況が出来上がります。つまりイデオロギー論争のような「子供のケンカ」でないため、問題が表に出にくい、陰湿な社会問題が多発するわけです。いじめ、オヤジ狩り、援助交際。本来なら、社会に出てからはじめて経験するような「閉鎖系」に触れてしまうことで暴走はしやすくなります。それでも学校という、サロンがいまだ存在する以上、まだマシですが、社会はますますサロンを失いつつあります。

 子供より、大人の問題の方が捨て置けません。たとえば子育てができない親も、あるいは多少の強制力すら持つ「サロン」の存在があれば、さほど大きな問題は産まなかったのではないでしょうか。

 最近はゲームによって常識が麻痺する、なんてくだらないことをいう専門家もいますが、それはゲームによるものではなく、ゲームによって生まれる可能性のある閉鎖性を、浄化させる能力が、「社会にない」だけです。なぜなら、テレビゲームに限らず昔からゲームなんて非現実的で、おかしな事が多かったはずです。「秘密基地」とか言うなんだか怪しげなものに隠れた組織は今より昔のほうが多かったでしょ。

 では社会は何故浄化能力を持つ「サロン」を失ってしまったのかというのは、都市化、そして閉鎖系の容認、この二点だけではないと思いますが、少なからずこの二点は関係しているとおもいます。

 個性が暴走する、それが閉鎖性の恐ろしさです。

 そんな時代に登場したインターネットは、「個人の閉鎖性を高めるメディア」である一面というものを、確かに持っているわけで、また閉鎖系を高い確率で作りやすいと思うわけです。まあ、掲示板なんか見ると高い確率でケンカするか、暴走するかどっちかですよ。また、自分の閉鎖性を、一般性と見間違える可能性というものも出てきます。みんなやっているから自分もやる、というのは閉鎖系によく見られる心理現象ですが、インターネットの出現により、閉鎖系でなくても個人の閉鎖性を暴走させる可能性は高くなったといえます。

 多分に漏れず、僕も現代人ですので、この閉鎖性というのをたっぷりと持って生きてますし、むしろ人よりたくさん持っているように思います。それならば、その閉鎖性に負けないように一般性を保とう、と考えていると、うちわ同好会の勧誘に何も考えないでノコノコついてくるような人は一般性が少ないからいらないとか思って、コミュニティの形成を極力避けますし、まあ若干人と違った行動をとるようになります。結局サロンなどというものが存在しない以上、コミュニティからはなれることで、かえって一般性とはかけ離れ、閉鎖性と言って差し支えない独自の価値観を持つようになるに至ります。僕も、そろそろ何が普通なのか分からなくなってきたように思いますよ。ただ、現代では何が普通なのか、知っている人達の方が少ないように思いますが。まあ、閉鎖性というものは、自覚してさえいれば一般性とは必ずしも相容れないものではないと思うので、さほど問題は無いのですが。

 しかし、私などは、「自己の一般性が麻痺している恐れ」というものがものすごく恐いので、最悪は人に迷惑をかけることなく生きていこう、という消極的な選択をしているのですが、それもどうやら無理らしい、という事に最近気がついてきました。もうすでに、モラルという言葉は、一般性という言葉の範疇からも外れてしまっているようにも思われます。たとえば、携帯電話も持つ側が一般的になってしまった今、持たない僕の意見などなんでも無くなってしまったようです。あれ、耳ざわりなこと多いですよ。最低一言断りを入れるぐらいして欲しいものです。 そうなると、閉鎖性を怖がってしまったが故に時代に取り残され、結局閉鎖的になってしまう自分の姿がどうにも馬鹿馬鹿しく、何を失敗するにしても、失策は我にあり、とため息ばかりついています。

 それでも、人生を他人より圧倒的に楽しめている僕ってのは、やはり少なからず天才的なのだろう、と思うわけですよ。

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